60年代のいわゆる“アングラ文化”は、異なるジャンルの創造者たちが、時には共鳴し、時には喧嘩し、離合集散しながらつくり上げられた。それまでジャンル毎に蛸壺のように分かれ孤軍奮闘していた前衛芸術家たちが、互いに他ジャンルに同類を嗅ぎ分け、協働し始めたのだ。
例えば、1967年に初の紅テント公演を旗揚げした唐十郎率いる状況劇場一座では、ポスターを横尾忠則(イラストレーター)、音楽を山下洋輔トリオ(フリージャズ)の生演奏、舞台美術を金子國義(幻想画家)、そしてチラシには澁澤龍彦(サドの翻訳者にして異端文学者)や加藤郁乎(前衛詩人)らがエッセイを寄せ、森山大道(“アレ・ブレ・ボケ”の写真家)が舞台写真を撮り、客席には瀧口修造(シュールレアリスト)や土方巽(舞踏家)が鎮座する。まさに異端、前衛、アングラの一騎当千のつわものたちが参集し、“良識”や惰眠を貪る“日常”に向かって蜂起した、七人の侍や真田十勇士のようであった。

劇団状況劇場初のテント公演チラシ(1967)
こうしたジャンルの異なる新しい創造者たちを結び付けたのは、新宿という場の磁力だった。当時の新宿は、文化的梁山泊とも言える状態であったと思う。
だが、なぜ新宿か?
繁栄の中心銀座はお高く、虚飾に満ち、はみだしものにとっては大層居心地が悪い。古来都市は闇の部分も内包していた。60年代の新宿には、江戸の岡場所であった内藤新宿以来の周縁性がまだあった。旧赤線跡の新宿2丁目のスナック、ユニコンやカプリコン。旧青線跡のゴールデン街。名曲喫茶の風月堂など、映画、演劇、美術、文学、音楽、舞踏、出版関係者らが出入りし、毎夜熱い議論が闘わされた。銀座や丸の内の、高度経済成長をまい進する産業戦士たちを横目に、現代のばさらやかぶき者たる前衛的アウトサイダーたちは、新宿の闇の世界に吸い寄せられるように集まったのだ。

1970年代初頭のゴールデン街
しかし、70年代になると、新宿の磁力はしだいに弱まっていく。その一番の原因は思うに、新宿の副都心化だ。西口にあった広大な淀橋浄水場跡地に、1971年竣工の京王プラザホテルを皮切りに高層ビルがどんどん建ち始め、遂には都庁まで移転するに及んで、周縁から中心へと変貌した。
60年代、特撮怪獣たちは、ゴジラもラドンもモスラも、いつも襲うのは都心の国会議事堂や東京駅や東京タワーなど繁栄のランドマーク。新宿のような周縁部は決して襲わなかった。それが、副都心が出来上がっていくと、怪獣たちは高層ビル群を情け容赦なく破壊し始める。そして何度破壊しても、次の映画ではちゃんと再生しているのだ。
80年代以降、新宿からは闇が消えた。地下戦士たちが創造の火を燃やした“アンダーグラウンド”は文字通り終焉したのだ。

新宿副都心東京都庁前でキングギドラ闘うゴジラ(1991)