もうだいぶ以前、北米のハイウェイを移動中、目を疑う様な光景に出くわしました。反対車線を爆走していたトレーラーの荷台に、何と1軒の家が積んであったのです。その時は一瞬のことでカメラを取り出して写すことができませんでしたが、後年カナダで写真のような場所を見付け得心しました。一見ただの住宅展示場の様ですが、よく見るとそこに並ぶ家々はどれもトレーラーの上に載っています。つまりそれらは日本の住宅展示場の様なモデルハウスではなく、売り物の現物で、買ってそのまま運び設置すれば(多分)すぐ住めます。あちらでは、まだ十分使える家なら、不要になっても取り壊したりせず、移動させて別のオーナーに引き継ぐことができるんですね。
僕は幼い頃、バージニア・リー・バートンの「ちいさいおうち」(石井桃子訳)という絵本が大好きでした。いまも版を重ねているロングセラーですが(2024年時点で第79刷)、第1刷の発行は1954年。ちょうど僕が5~6歳のころなので、両親が出たばかりの本を買ってくれたのでしょう。主人公はいなかの田園地帯に建てられた小さな家。周りの自然の移ろいや、住人の子供たちの成長を見守りながら幸せな毎日でしたが、時代が進むにつれ、町がどんどん郊外に延びてきて、遂には大都会に飲み込まれてしまいます。騒音や振動、空気の汚れ、やがて小さな家は誰も住まない空き家になります。そして長い年月が経ったある日、最初にこの家を建てた人の孫に発見され、トレーラーに載せられて再び自然豊かな郊外に安住の地を得、幸福な日々を取り戻すというストーリーです。長い間、僕は家が建ったまま運ばれるなんて作り話だと思っていましたが、現実にあることが分かりました。
それから約70年、僕は再び1軒の家が主人公の絵本に出会います。ところは八ヶ岳山麓にある小さな絵本美術館のミュージアムショップ。「百年の家」という題名が目に留まり、開いてみると繊細な描写の、とても美しい絵本です。森の中に打ち捨てられた石造りの廃屋。20世紀が始まる前夜の1900年、森を探索に訪れた一家の子供に発見されます。門口には1656の文字。すでに建てられてから250年近い年月が経っているわけです。一家は廃屋を修復し、そこで暮らし始めます。家畜を育て、ブドウを栽培し、小麦畑を耕す。家も時々改修され、少しずつ住み心地良さそうになっていきます。家族には、新しいいのちの誕生と死、出会いと別れ、収穫の喜びとつらい戦争、様々な出来事が過ぎていきます。家はそんな一家の喜びや哀しみを包み込んで100年の時が過ぎ、20世紀が終わりをむかえる1999年、意外な形でこの話は終わります。家自身が物語ることばはシンプルで、詩人長田弘の訳文もすばらしい。僕は立ち読みしながら、自分の魂が震えるのを感じました。家とは単なる生活の器じゃないということが、心の中にしみわたっていったのです。
僕は最近、15歳まで暮らした東京世田谷の桜新町を訪れました。しかし、60年前のまま残っている家はほとんどありません。戦後の日本は“scrap and build”。建物と共に“時の記憶”まで“scrap”されないことを願います。


