カルチャー掘り起こしとくにもやまにも

文化情報サイト徳にも山にも ロゴ

楊貴妃の里の墓と楊貴妃像 〈彫刻群島4〉

山口県に楊貴妃の墓があるというので、行ってみた!というお話です。楊貴妃の墓があるんだ?というネタを山口県民に振ると、あぁそうだよという返事が返ってくるくらいで、とくに誰も熱を込めて語ることはないのですが、何もないところに墓碑が立つことはないので、きっと何かあるのだろうと思っていて、ずっと行ってみたかった長門市油谷の楊貴妃の里へ行ってみました。道路に看板も出ていて、上がりますね。

ロマンロードに続く道

里があるのは、向津具(むかつく)半島で、楊貴妃が流れ着いたのは半島の突端川尻岬とのことなので、里からはやや離れています。油谷湾を望む本州側には楊貴妃の里の存在が公認であることを裏付けるかのように「油谷湾温泉ホテル楊貴館」などもあります(温泉入ってみたかったな・・・)。この楊貴館から里までの道は「楊貴妃ロマンロード」という名前がついていました。

想像するに、楊貴妃が流れ着いたという伝説は江戸時代に作られたものではないかと思われます。文書の初出が1766年であるからです(*1)。お墓は立派でしたが、形状的に鎌倉時代の惣墓風の五輪塔です。京都の清涼寺から持ち込まれたという二尊仏(国指定重要文化財)の制作年代も、鎌倉時代のようです。また天請寺(てんしょうじ・現在の二尊院)の創建は807年とのことで、最澄(767-822)が開山したと記されています。楊貴妃(719-756)の生存年代とは諸々時代が噛み合いません。

楊貴妃の墓

一方、向津具銅剣(国指定重要文化財有柄細形銅剣)が発見されているとおり、大陸を対岸に持つ長門は、弥生時代から要衝として栄えた土地だった可能性が高く、また楊貴妃の存在は、奈良時代には日本に伝わっていたということで、楊貴妃漂着説がまったく根拠がない伝説とも言い難いところです。向津具の土地と二尊院がどのような歴史を歩んできたのかはわかりませんが、長門の地は、7世紀には長門国大津郡と呼ばれるようになり、やがて豪族であった厚東氏が12世紀から14世紀かけて、その後は大内氏が、江戸時代には毛利氏が治めています。大内氏が治めた鎌倉時代には楊貴妃伝説が既にあった可能性もあるのかなと妄想しました。

劉芸傑《楊貴妃像》大理石

何はともあれ、遥か彼方に広がる海を穏やかに見つめるような楊貴妃像は、なかなか美しく好ましい姿でした。こちらの像は、中国の馬嵬坡(ばかいは)に立つ楊貴妃像と同じものを西安美術学院の講師が制作し、中国大使館の協力のもと1993年にこの地に建立されたということです。38歳で亡くなった楊貴妃に因んで高さ3.8メートルということでかなりの迫力です。どの角度から見ても力まず、伸びやかな輪郭、ふくよかな指先、豪華な髪結に、線刻ですっきりと表した着物、どこか近現代の人形に通じるような出来栄えだなと、という感想を持ちました。日本の彫刻では裸婦像ばかりだし、人形は工芸ということであまり見る機会もなく、この中国から来たという貴婦人像は、その両方を束ねたような、あるいは20世紀の観音像でもあるような、曖昧な感慨を覚える作品でした。できればオリジナルの楊貴妃像と合わせて、この表現の出自をたどってみたいものです。

(*1)長門市ウェブサイト「楊貴妃伝説」2026年5月3日閲覧 https://www.city.nagato.yamaguchi.jp/site/kanko/1637.html

カルチャー掘り起こし とくにもやまにも