「インドには行ける者と行けない者がいるけれど、君はそろそろインドに行けるんじゃないかな」─
横尾忠則が、かつて故・三島由紀夫に言われた言葉を、旅行記「インドへ」の冒頭で紹介していました。三島由紀夫が言ったというだけで何となく足された天啓のような趣きに、多くのバックパッカーたちがインドへと絡め取られたマジックワードなのではないでしょうか。また、このインドという国には「呼ばれる」という言い方があります。インドに呼ばれる者、呼ばれない者。では、何のために呼ばれるのでしょう?
一介の宗教者としての解釈は、「カルマを解消する必要がある者」がインドに行くことになるんじゃないかなと思っています。善行・悪行問わず、自分が過去にやってきた結果が蓄積されたことによる宿命というものがあり、それらを解消し、流れを変える必要があるときに招かれる。だから、インドに行くことになる人はそういうタイミングなのだと。インドって、そういう土地のような気がするのです。
ちなみにわたしの『初めてのインド〜カルマ解消ツアー10日間〜』は15年前、音信不通になった人を探すのが目的でした。インド超広いけど。日本の国土の8.7倍あるけど。運命論者なので、とりあえずガンジス河があるバラナシに行けば、その人に会えるんじゃないかと思ったんですね(参考:「深い河/遠藤周作」)。
※バラナシ市の人口は約120万人といわれる
初インドは暑くて、行く先々で騒がしくて、とにかく生き物がごった返していました。祀られている神々の姿もなんだか禍々しく見え、街のスピーカーからはキンキンの音楽が流れっぱなしで、牛が道を塞ぎ、なんでもかんでもスパイシー。「グル」と呼ばれる人のところへ連れて行かれたり、黙って火葬場を眺めたりするばかりで、探し人にも全然会えず、ただ日焼けして帰国したのでした。
と、目的は果たせなかったけど、このインドひとり旅がのちの人生において、「海外」へのハードルを思いっきり下げてくれる役割を果たします。もしインドを体験していなければ、エクアドルへも、ブータンへも、愛してやまないネパールへも、行こうなんて思わなかったでしょう。ネパールでチベット仏画に出会っていないとすれば、今の仏画師のわたしはまるっきり存在しないことになり、ネパールの大事な友人たちも、人生には登場しないことになってしまうのですから。
強烈に人生の潮目を変える国、インド。もう1回ぐらいは行くことになるのかな、と思っています。みなさんももしかしたら、もう呼ばれているかも。
ちなみに初インド旅から7年後のこと。関西空港から九州に向かおうと、わたしはある搭乗口の長い列に並んでいました。聞き覚えのある声にふと顔を上げたとき、わたしの目の前にはその探し人が立っていたのです。因縁の再会。小説みたいでしょ。ディープリバー、って感じしたわぁ。