
憧れの職業が、大工・左官・自動車整備士・花火師だったから、中学の進路相談で「高校に行きたくない」と言う私に担任が提案してくれたのは、当時の自宅から徒歩圏内にある高校だった。
私は小学生の頃からバレ-ボールをやっていて、そこのバレー部はそのあたりではそれなりのレベルだし、学力的にも少し頑張れば届くから、という理由だったが、私の答えはソッコーで「NO!」。
ヒステリックな女性顧問の下で奴隷のようにプレイすることに、何の意義も意味も見出せそうもなかった。
ある日担任に、職員室に呼ばれた。
てっきり説教でもされるのかと思っていたけれど、進路の話だった。
隣町の公立高校のバレー部が、今年から各中学校の選手に目星をつけてメンバーを集めチーム強化を図る、その候補の一人に私が上がっている、と言うのだ。
確かにこの高校は全然強くなかったし、何しろ私に特段のプレイ技術があったワケでもなければ(というか下手だったよ)、身長があったワケでもないただの細身、思い当たるとすれば左利きだということくらいだったけれど、必要としてくれるなら、ついでに「受験受験!!」とガリ勉しなくても学力も足りそうだし…などという理由で、私はすぐにそこへの進学を決めた。
無事に合格して春になって顔を合わせると、府内でそれなりに成績を残した中学校出身が何人もいた。場違いだと思った。
当時はスパルタが当たり前だった上、上位を目指したのだから、練習は厳しかった。
故に多くあるはずの想い出の中で一番心に残っているのは、チームが目指した「ベスト4」だとか、メンバーが口にする「トップ」だとかいう言葉に、乗り切れない自分がいたことだ。
片田舎のかき集めメンバーで成り立つ私たち公立高校チームに対して、相手は各地から優秀選手を集めた私立高校だったりする、どう考えたって勝てないでしょ、それが私の本心だった。
それに、相手がミスをすれば得点がもらえ、こちらがミスをすると得点を取られ、先に15点(当時は15点制だった)取った方が勝ち、取れなかった方が負ける、このどうしようもない仕組みによる勝ち負けよりも、ほかにもっと大切なことがあるような気がしてならなかった。
そういえば、この頃の私はすでに反抗期に入っていたはずで、それ以降良くなかった母との折り合いについてどうだったかと思い出してみると、確かに口数は減っていたと思うが、試合から帰って台所に立つ母に、勝った、とか、負けた、とか、そういう結果報告はした記憶があるのだ。
母が私の隣で何を言ってくれたのか、少しも思い出せないけれど、否定とか評価とかいうようなことは一切せずに、結果がどうであれ「そうかぁ」とか「お疲れさんやったなぁ」とか、そういうことを言ってくれていたような気がする。
ちなみに、記憶に残る試合は、対・桜宮高校(大阪)戦。
いい試合だった。
みんなどうしてるんだろ?元気なのかな。
