人の記憶と言うのは薄情なもので、忘れてはならない事、忘れるべきではない事でも日々の時間に追われ遠い所に追いやってしまっている。
今はもう無い街中華のおばちゃんも、時代を変えた人物も、何処かに存在し続けているはずなのにすぐには思い出せない。
引き出しから出てきた銀の匙で幼少期の記憶が蘇ったり、マドレーヌの匂誘われて膨大な物語が始まってゆくお話もある。
季節が巡り、私達の日常にも空気の中に秋の気配を感じたり、文庫本の中の一説であったり、実家の引き出しの中にいつまでもある“別府“のキーホルダーであったりと些細な事でその記憶の扉が開くこともある。意図して忘れないよう努力もしてきたんだとも思う。
『忌日』とは人の亡くなった日、同じ日付で偲び、供養する日とある。
作家をはじめ著名な人々に因み、様々な忌日がありそれらは文学忌とも呼ぶらしい、俳句の人々はこれを季語として捻られると聞く。
季節としての『忌日』をきっかけに日常におこってきたヨシナシゴトを書きたい。
長細い小上がりに折りたたみのちゃぶ台、料理が運ばれてくる10分程度の時間に速読で目を通すビックコミック。近所のサラリーマンの束の間のお昼の憩いの場であった街中華、おすすめは五目そば。
ドラマーと踊り子が夫婦になってお店を持ったらしい。
特別でない日常のお昼ご飯の選択肢の一つであり、必ず街に存在しなければならないインフラだと信じていたが、突然暖簾をおろされた。
悲しかった。
看板も残され、表は閉まったままの店の前を何度も恨めしい気持ちで
ウロウロした。
鼻腔の奥にあった五目そばの残り香が消えかかりそうな午後、
扉が半分開いたその奥に丸椅子に腰掛けて『緑のキツネ』を啜る親父さんをみた。
あの街中華は教会の横
周作忌
9月29日は小説家 遠藤周作の忌日