“僻地”の取材から戻ると、決まって「現地では何を食べていたの?」と聞かれます。説明すると、「それ美味しいの?」と重ねて質問。そうなんだ、いまの日本では、食事の主目的は味覚上の快楽、つまり“グルメ”なのだとあらためて気付く瞬間です。
“僻地”と言っても、僕らはそれほど変わったものを食べているわけではありません。現地の人が日常食べているものを食べています。ただ、日本の普通の家庭のように、たとえば、昨日はハンバーグ、今日は秋刀魚の塩焼き、明日はカレーライス、その翌日はギョーザという様なバリエーションは余りありません。僕らから見ると、毎日同じようなものを食べています。そこには“グルメ”という感覚はほとんど見られません。もちろんそれらが不味いと言っているわけではなく、どれもみな美味しいのですが。
アマゾンの食事 右の豆料理はブラジルの国民食フェジョン
釣った魚(これはピラニア)を塩焼きに
そもそも五感は、人間を含む動物たちが生きていく上で必須のセンサーだと僕は考えます。その一つ味覚もそうです。本来美味しいと感じるのは、それが命を保つのに必要な栄養分を含んでいるよ、というサインであり、不味いと感じるのは、腐っていたり毒を含んでいたりして、食べたら危険だぞというサインだったのではないか思うのです。だから、朝から晩まで高温多湿の熱帯雨林で生きものを求めて歩き回り、体力を使い尽くした体に栄養を補充してくれる食物は、どんなものでも美味しい。
というわけで、食事の本質はグルメではなく、命をつなぐために必須のものなのですが、その必然的な結果として次にくるのが排泄です。
野生のままの大自然の中には、当然トイレなどありません。そこらで用を足すことになります。でも、ジャングルでは、それは簡単ではありません。前回書いたように、そこには無数の吸血昆虫が飛び回り、ズボンを下ろしてしゃがみこんだとたん、お尻中を蚊に刺されまくります。
その予防措置として、まず周りに小さく折った蚊取り線香を4~5本立てて、煙のバリアーをつくり、次にズボンを下ろし、お尻に虫よけスプレーを満遍なく吹き付ける。そうしてから、おもむろに用便を始めるわけです。面倒なこと、この上ないのですが、命を保つための食事を止めることが出来ない以上、その結果としての排泄もまた避けることは出来ません。この循環が一瞬たりとも止まれば、死につながります。畢竟、人間は、そしてあらゆる動物たちは、みな栄養分が通過し続ける1本の管なのです。
キャンプの仮設トイレで用便中の筆者
僕は2か月近いロケには、好きな何冊かの文庫本(例えば山本周五郎、ロアルド・ダール、内田百閒など)や、ウォークマンに録音した音源(例えばセロニアス・モンク、古今亭志ん生、グレゴリオ聖歌など)を持参します。これらは片道30時間を超す長旅には必須のアイテムです。でもフィールドに入ると、これらを読んだり聴いたりすることはほとんどありません。心身ともに使い尽くすと、残された知力は翌日の撮影の戦略を練ることに費やされ、エンターテインメントを楽しむ余裕はどこにもないのです。
先のコロナ禍では、文化は“不要不急”のものとされ、多くの映画や演劇、コンサートや展覧会が中止を余儀なくされました。では“不要不急”の文化はなぜ生じたのでしょう?もしかすると1本の管に甘んじることへの、人間の抵抗だったのではないでしょうか。
しかし、極限にまで至ると、そんな抵抗も空しく、人間はたちまち1本の管に戻ってしまいます。そんな冷徹な事実にさえ抵抗し、強い文化を創造しようとするのもまた人間なのではないでしょうか。