凌雲寺跡について書く。
凌雲寺跡は山口市内に点在する大内氏館跡、築山跡、高嶺城跡と共に4遺跡で大内氏遺跡 附 凌雲寺跡として昭和34年に国指定史跡に指定された。大内氏滅亡(1557)後から平成の時代まで実地調査が行われておらず、「幻の寺」だった。
凌雲寺跡は1507年頃に創建された周防大内氏15代当主・大内義興の菩提寺。これまでの発掘調査では瓦葺の建物の存在が想定されること、禅宗寺院の可能性があることなどが判明している。寺跡内には凌雲寺開山塔と、大内義興と妻の墓と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残されている。
史跡に指定される範囲は36,963.91㎡と広大。台地の寺跡南端を東西に横切る石垣は、寺の総門の遺構として伝わる。長さ約60m、高さ約3m、幅約2m。巨大な自然石を用い、豪壮雄大。大きな石を両面に積み上げて隙間を小石で埋める構造は、朝鮮半島の城や沖縄のグスクの石垣に類似し、大内氏が朝鮮半島と盛んに交流していた影響が伺える。後世には一体が水田だったため失われたものも多く、往時の全貌を知ることは難しいものの、その構えから寺院としての役割だけでなく、有事に備えての城砦の役割を兼ねた城郭寺院だったと推定されている。

大内義興夫婦の墓と開山塔
大内義興は7カ国の守護職を兼ね、室町幕府10代将軍足利義稙の時代には管領代として将軍後見人となり、天下人と言われるほどの権勢を誇った人物。
現在では想像できないほど豪壮な伽藍だったのではないだろうか。
有名なあの句に通じるものがある。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や 兵どもが 夢の跡 ―――「奥の細道」松尾芭蕉
義興の嫡男・義隆の時代に領地は大内氏最大に。日明貿易を独占し、フランシスコ・ザビエルを山口に招き、朝廷や多くの公家との交流により山口は西の京と呼ばれ、大内文化の爛熟期を迎えた。しかし、「夏草や〜」の舞台となった奥州藤原氏と同じ様に家臣の謀反により大内氏は滅亡。凌雲寺もその頃に廃寺となったと推測されている。

総門跡の石積み
今は南に望む喧騒渦巻く現代の山口の街を抜け、谷間を駆け登ってきた海風が500年前に栄華を誇った夢の跡を吹き抜けていく。そんな場に身を置くと、歴史の壮大さと悠久の時を感じ、人間のちっぽけさを痛感する。

この史跡に立ち入る過程が好きだ。駐車場から小さな案内板に従い歩を進める。川のせせらぎを聞きながら古い橋を渡り、土手の石段を登る。するとまず、主人の義興の墓が迎えてくれる。その脇を抜けると、山々に囲まれた草野原に放り出される。空が大きく開け、南に山口の街を眼下に望む緩斜面。小道を南へ降りていくとそこに残された大きな石積み。荒涼とした寂寞感漂う世界に、どんどん引き込まれていくような感覚。地形や現在の土地所有などの事情による単なる偶然だとは思うが、よくできた動線設定だなと思う。
目にするものとその順番、高低の変化や斜面に沿った移動による没入感。建物がなくても人の心象に強く影響を与えるもんだなと。
凌雲寺跡 所在地:山口県山口市中尾
Google map https://maps.app.goo.gl/P2viEKwQriFEojrNA
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前回は墓所のことを書いた。今回は遺跡。建物が無くてもいいのか?投稿させていただくにあたり、自分の中では“けんちく”を建築物だけではなく、建築物やそれに類する人工物によってできた空間だと捉え、実際にそこを訪問し、体験して感動した時の体験記を書くという整理にしている。だから、いいんです。今後、新たに体験し、ここに書きたいことがまた新たな分類・対象物であれば、その時はその時で、“けんちく”の範囲を広げるので悪しからず。