下関市体育館について書く。
日本では「建築家」という言葉は、建物のプランやデザインなどを担う意匠設計者を指すことが多い。大きな建物では構造設計や構造計算を専門に担う構造設計者や空調などの機械設備、給排水などの衛生設備、電気設備の設計を専門に担う設備設計者と共同し、意匠設計者が各設計者を統括する立場になることが多いため、いわゆる建築家=意匠設計者となる。しかし、著名な構造家が意匠設計も構造設計も担当した名作建築が山口県にある。いや、あった。
構造家坪井善勝(1907-1990)の設計による下関市体育館だ。1963年に下関市に完成。2024年7月31日まで一般利用され、9月末から解体工事が始まる。
地元の民放テレビ局でも解体を前にニュース番組で紹介されている。
参考:KRY山口放送ニュース公式チャンネル
https://youtu.be/fc9AmpifLI4?si=RRlHLs_huF6d-A3u
一言では言い表せない建物の形。HPシェル構造の直線から曲面に変形する金色に輝くユニークな屋根と外観。ダイナミックな建物の構造。その構造と一体となった壮大な内部空間。現在、一般的によく見られるアリーナ部分を均等に囲む客席や天井高が一定の、均質な内部空間の体育館とは一線を画する個性的な体育館だ。
設計を手掛けた坪井善勝は日本を代表する建築家丹下健三(1913-2005)と共同し、丹下が手掛けた香川県庁舎、国立代々木競技場、東京カテドラル聖マリア聖堂、大阪万博お祭り広場などの構造設計を担当した。日本の建築史上だけに留まらず、日本の現代史上エポックメイキングな建築の数々に関わる日本を代表する構造家である。
一説には、丹下は香川県立体育館でワイヤーで屋根を吊るつり屋根構造を、坪井は下関市体育館でHPシェル構造を国立代々木競技場に先駆けて完成させており、それぞれの知見が代々木へ活かされているとも言われる。
著名な構造家が唯一意匠設計を手掛けた建築であり、日本人の誰もが知る現代建築へ繫がる意義深い建築が下関市体育館なのだ。
そしてもう一つ、先日毎日新聞の朝刊に掲載されたエピソードを。1970年6月16日、大分の農家の6人兄弟の末っ子だった16歳の少年がプロレス興行が行われる下関市体育館に入門志願にやってきた。そこでアントニオ猪木と会い、そのまま巡業に合流し猪木の付き人を務めることになる。後の“ドラゴン”藤波辰爾である。
重要文化財や国宝になるような古刹や遺構もいいが、現代建築にも様々な歴史の一ページを飾る物語がある。
下関市体育館は解体され無くなってしまう。「結果」の部分は残されたり保存されることがあっても、「過程」の部分は歴史的価値が明確に証明できたり、誰もが知る知名度が無ければ、ただ残すということはなかなか難しい。だからこそ、色々な媒体に無くなってしまう一地方の建築のことや情報も書き留めておけたらと思うし、そうなる前に山口県内の様々なけんちくを見に行けたらと思う。
坪井善勝:
https://ja.wikipedia.org/wiki/坪井善勝
下関市体育館: