「3分間待つのだぞ・・・腹が減っても、じっと我慢の子であった」
1970年代初頭に流行ったボンカレーのCM。3分間は、レトルトカレーが温まるまでの時間です。わずか3分間、でも、お腹が空き、ご馳走を目の前にして手が出せない3分間は、子どもならずともタンタロスの苦しみです。
カレーはやがて温まります。ところが、田舎の一本道の木の下で、ウラディミールとエストラゴンの二人が、ゴドーという人物を待ちながら延々と無意味な会話を続ける、サミュエル・ベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」では、結局ゴドーは現れません。三島由紀夫は、ゴドーが最後まで現れないのはけしからん、と怒ったとか。
そんな現れるかどうか分からないゴドーのような相手を待ち続けるのが、僕の仕事です。
野生動物の生態を映像に記録する要諦は待つこと。事前に十分下調べをし、準備万端整えてフィールドに出ても、思惑通り撮影対象が目の前に現れてくれるとは限りません。そんなとき、むやみやたらに探し回っても、広大なジャングルでは点と点が出会うようなもの。かえって相手がこちらの気配を察し、姿を隠してしまいかねません。だから、手掛かり(足跡、食痕、糞など)を見付けたら、そこにブラインドを立て、その中で息をひそめて待ち続けるのです。読みが的中し2~3日で現れることもあれば、30日待っても現れないこともあります。
早春のワイオミングの原野にブラインドを張り、キジオライチョウの集団求愛行動を待つ
現れる保証のない相手を、毎日毎日狭いブラインドの中で朝から晩まで待ち続ける。外に出られないので、トイレはペットボトル。その間どうやって時間をつぶせば良いでしょう?
スマホを見る?Wi-Fiも電波も無いのでネットに繋がりません。イヤホンで音楽を聴く?耳が塞がっていては、動物の気配に気づくことができません。文庫本を読む?30日も待つことになると、ただでさえ荷物を切り詰めなければならない僻地に、いったい何冊持っていけば良か?
ブラインド内部 とにかく狭い
僕は小さな電子辞書を1台持ち込み、待つ間、言葉の意味を一つ一つランダムに読んでいきます。収録された言葉は25万語。決して読み終わることはありません。いったい私たちは、一生の間にこの何パーセントの言葉を使うでしょう?
「広辞苑」=広大な言葉の庭、「大辞林」=巨大な言葉の林、「大言海」=巨大な言葉の海、どれも正鵠を得た命名です。僕は“文字通り”言葉の庭を彷徨い、言葉の林に迷い込み、言葉の海を漂うのです。時間など瞬く間に過ぎ、もう夕方か、もっとここに居たいなあと思うようにさえなります。
世界中を共に旅した電子辞書CASIO EX-word
辞書の言葉は、文章になる前の、いわば文章の細胞。太古の地球の海の中で生まれた単細胞生物が、次第に寄り集まって複雑な生物をつくっていく様に、人間は言葉の海に漂う単語を掬い上げ複雑な文章を紡ぎます。未だ文章にならない言葉たちと戯れながら待つ時間は、まさに愉楽の時。不思議の国の帽子屋の様に「時間をつぶす(to murder the time=時間を殺す)」なんてとんでもない。ハートの女王は叫ぶでしょう、「首を切れ!」