カルチャー掘り起こしとくにもやまにも

文化情報サイト徳にも山にも ロゴ

痕跡_序文

写真家を名乗り始めてから11年、写真を撮るという行為に初めて手を出してからは、ちょうど20年が経った。


(2003年 当時の自宅周辺にて撮影)

写真を撮り、作品として世に送る。カメラという“ちょっとお高いおもちゃ”への好奇心から始まったこの作業も、最近は仕上がるモノに手癖のようなものが乗るようになってきたと思う。
僕が写真を常面白いと思うのは、どうやらそういった手癖の類が僕自身の精神性に由来するものらしいからだ。

これは自分で見てそう気付くより先に、僕の写真を見た方々がそうなのだと教えてくれる。
昨年催した個展の場でも、とある方より「社会や他者の領域へと踏み込みきれない君の孤独が現れている」との評をいただき、特段そんなつもりで撮った作品群では無かったけれども、言われてみればこれがなんとも腑に落ちる感じがした。

2年ほど福岡に住んでいた時期がある。仕事らしい仕事も無く、常に窮していた我が身の情けなさから世間と接することに気後れし、ただ写真を撮るという行為によってのみ、写真家としての自我を保っていた。

当時はまさしく暗澹たる日々。でもその抑圧された精神の反動が、今現在まで活動を続けさせていることは確かに感じていたので、あの評を頂いたことで答え合わせをしてもらったような安心を得たのかも知れない。

⁻⁻⁻

さて、『神は細部に宿る』という格言がある。細部にも気を抜くなというような戒め的意味があるとも聞くけれど、由来ははっきりしていないそうなので、その辺りは一寸無視させていただき、神=精神と読み替えさせていただくと、人の生み出したモノを見れば必ず何処かには生み手の精神が現れている。と、先の体験から思う。

つまり、作品に宿る神とは、作家自身も意図しない精神の「痕跡」だ。
これまで多くの写真を理論ではなく感覚で撮ってきた僕には、自分でもその意図を読み解けない写真が多数ある。

冒頭に載せたスイセンの写真もそのひとつで、撮影時の感情なんてとうに薄れて思い出せやしない。それでも、なんとはなしに見ていると幼い精神の痕跡が匂い立ってくるように感じる。

これは、写真という過去に残された「痕跡」に触れることで、これまで知り得なかった自身の精神の輪郭を追認できるているのではないだろうか。

ここに思い至ってからは、僕の創作の意義は、自分という一人間の輪郭を知り、また、その自己観測の果てにどんな表現でもって人生の終着を為すのかを見届けることにある気がしている。

⁻⁻⁻

詳細な観測には、アーカイブが必要だ。
このとくにもやまにもという媒体では「痕跡」というテーマで連載型制作を行う。

痕跡という概念の在り方を自らに問い続けながら、その時々で感ずるソレを写真に納め、投稿していく。
その思索の連なりでもって自己の精神の輪郭線を描き、一つの作品と成すことが最終目標だ。
時間の許す方は、横目にでもその彷徨の様を楽しんでいただきたい。

 

>痕跡_1

カルチャー掘り起こし とくにもやまにも