小粥と申します。仏画を描いています。
ネパール放浪中にチベット密教の仏画に出会い、学び始めたのが9年前で、仏画師と名乗りはじめたのもその頃だと思います。それまでは何者でもない、流転の暮らしをする自称イラストレーターでした。
そこから熱が冷めず、毎年のように渡航を繰り返して、ある年にチベット密教でも最重要といわれる「時輪曼荼羅」を制作してから、帰国後も曼荼羅を描くようになりました。
それで仏の世界に触れて己の因果が噴き出したのか、大きな悪性腫瘍と自転車事故で二度ほど彼岸の近くまで行き、そののちに山岳行者の方との出会いがあって、ようやく神仏への心持ちと距離感を知れたように思います。
畏れ多い、という気持ちが大きすぎると、仏の世界を描くことはできません。かといって畏敬の念を伴わないと、ただのアート作品に終わります。畏れ多いことは百も承知としながら、清浄な領域に手を伸ばし、その世界を掴んで描こうとする、身の程知らずな己の身の程を知るために描くのが仏画制作なように思います。「仏道をならふというは自己をならふなり」、キャンバスに向き合う自分の背筋を正してくれる、かの道元禅師のことばです。
ただ、制作中苦しみ抜いたわりに、完成してしまえば自分の仏画であることを忘れてしまうような瞬間もあります。ふと目にした自分の作品に「素敵な作品だ」と感想を持ち、描かれた尊格も苦笑いしているに違いありませんが、描いたわたくし自身が救われている証拠だろうとも思います。
自分の祈りの対象を自分で描く、そしてそれを美しいと思う。これだけで今生人間に生まれた甲斐がありますが、やはり誰かを救うものであってほしい。
そういうものを一枚でも描ければなぁという思いで、仏画を描いています。ちなみにこれは、2019年に制作した『釈迦の一生』。