僕は昨年後期高齢者(75歳以上)になりました。いよいよ団塊世代(1947~49年生)が、世の中の年齢層の最上部を占めるようになったわけです。それは、若い世代にとって、ある意味で不幸なことでもあるのではないかと思っています。というのは、僕ら団塊世代は戦後生まれで、戦争の悲惨さについて次の世代に伝えるべき、実体験に基づく言葉を持っていないからです。
もちろん日本が、そして僕らが、これまで80年もの長きにわたって戦争を免れてきたことは、とても幸運なことです。しかし世界には、いまだ戦争が絶えることは無く、日本も間接的には常に様々な形で戦争に加担しています。
僕はこれまでおよそ50年間、映像の仕事に携わってきました。そして、その後半の約30年間は、専ら自然や野生動物の生態を追って、地球上の様々な辺境の地を巡ってきました。
しかし、僕が初めて海外ロケに参加したのは、それとは全く異なるテーマでした。太平洋戦争の“玉砕”の島のドキュメンタリーです。僕はその時、まだ20代でした。ロケ地は、マリアナ諸島のテニアン島。日本本土を空襲したB-29の発進基地となった島で、広島と長崎に原爆を投下した爆撃機もここから飛び立ちました。
テニアン島がアメリカの手に落ちる前、島は日本の委任統治領で、軍人と共に内地から入植した多くの民間人が長年にわたって暮らしていました。そして戦争末期、米軍の上陸作戦によって、激戦の末、日本人は軍民ともに玉砕したのです。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓は、兵士だけでなく民間人にも強要され、中には赤ちゃんを背負った母親まで、高い断崖から海に飛び込んで自死しました。
このロケには、九死に一生を得て帰還した元兵士や、その戦死した戦友の妻、遺児などの方々に同行いただきました。その方々の語る戦争の実相は、戦死者を単なる数字でしか記述していない戦史からは決して読み取ることができない、生々しいものでした。死んだ人にも、残された人にも、それぞれの人の分だけ戦争があるのだということを、身に染みて感じたのです。
日本がこの80年間、戦争に直接手を染めるぎりぎりのところで踏みとどまってこられたのは、ひとつは太平洋戦争を体験した世代が現存し、彼らの強い非戦への願いがブレーキになっていたからではないかと考えます。これは決してイデオロギーではありません。「あんな思いは二度としたくない」という魂の叫びです。
とりわけ、戦時の子どもや若年者たちは、大人が始めた戦争の惨禍に翻弄され続けました。
僕の母は終戦の時16歳、満州からの引揚者です。しかし、母は死ぬまで一度も引き上げ体験を僕らに語ることはありませんでした。まだ平和だったころの、奉天(現在の瀋陽市)での女学校時代や、引き上げ後に過ごした山口県徳佐村の農村生活については時々話してくれたのに。否応なく戦争に巻き込まれた若年者たちにとって、それがどれほど過酷で理不尽な体験だったのか、黙して語らない母の有り様が、何よりも雄弁に語っているように思います。
戦時中に少年だった二人の創造者がつくった歌があります。「死んだ男の残したものは」
詩は谷川俊太郎。曲は武満徹。終戦の時、それぞれ14歳と15歳でした。
石川セリ「翼」武満徹ポップ・ソングスより
YouTubeでいろんな人の歌や合唱で聴けるので、ぜひ聴いて見てください。
そしてもう一人、やはり戦時中少年だった寺山修司の短歌。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」
寺山は終戦の時10歳。これほど強く心に突き刺さる歌が詠める詩人は、僕らの世代にはいません。
戦争から遠く離れれば離れるほど、戦争を語る言葉は沈黙の中に飲み込まれていきます。武満徹はかつて「私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私はその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない」と書きました。これらの詩はまさに「沈黙と測りあえるほどに強い言葉」ではないでしょうか。