昨年僕は大変感動的な一本の映画を観ました。「HERE 時を越えて」。主演はトム・ハンクス。でも、実は本当の主人公は、一軒の家です。その家のリビングルームに向けられたキャメラは固定され最後まで動かず(実は一番終わりのショットで動く)、登場人物たちの営みはキャメラの前、つまりHERE“ここ”しか見えません。時代が変わり、家の持ち主が変わっても、同じ様に“ここ”で、出会いと別れ、誕生と死、成長と老い、喜びと悲しみ、誰にでも起こり得る様々な日常的な出来事がランダムに映し出されます。一軒の家は、まさに人生の舞台です。
長らく暮らした家が取り壊され、それが建っていた場所を見たとき、自分の家がこんなに小さかったのかと驚くことがあります。笑ったり泣いたり、喧嘩したり、家族と生活の多くを過ごした空間がこんなに小さかったとは・・・たとえそれが西洋人から“ウサギ小屋”と揶揄されるような文字通り小さな建物でも、自分にはひとつの小宇宙だったと気付かせるもの、それは時間です。
昨日は今日と違い、明日もまた違う。変化する自分と世界、そこに生きた時間が家という空間に重層的に蓄積されていく。3次元の空間に時間を加えた4次元の時空連続体こそ、「家」というものだと僕は考えます。
ところで、常に移動を繰り返す狩猟民や遊牧民。彼らには、そんな“ここ”と呼べるような固定された「家」はありません。
中国新疆ウイグル自治区で出会ったカザフ人の遊牧民は、中央アジアの大草原で牛や羊を追いながらゲルという直径5mほどの移動テントで暮らしていました。彼らは移動の途上で生まれ、移動しながら育ち、移動の中で老いて一生を終えるのです。

カザフ人のゲルの前で(新疆ウイグル自治区)
ゲルのなか(きっとこの子も一生を草原で過ごす)
極北の狩猟民も同じです。常に獲物を追いながら、ツンドラやタイガ(北方針葉樹林)で、一所不住の生活をおくってきました。
僕の40年来の親友であるカメラマンのアランは、カナダユーコン準州のホワイトホースに住み、いっしょに厳寒の地を何度も撮影して回りました。アランの奥さんのメアリーは、カナダ先住民デネーです。アランが若い頃、先住民の取材に訪れメアリーと出会い、結ばれたのです。そしてアランは、義父から猟師として仕込まれました。ただその当時でも、狩猟民であるデネーはすでに居留地に定住するようになっていました。しかし、ムースやカリブーを狩ったり、テンやウサギを罠でとらえたりするため、家に落ち着く時間は少なかったでしょう。
そのアランから、昨年のクリスマス前、とても興味深い写真が送られてきました。
メアリーが親類の親子のため、クリスマスプレゼントのモカシンをつくっているところ。僕はそのミシンに目が釘付けになりました。手回し式のシンガー!アランによれば、昔メアリーのママがパパとカリブーを狩りに出るとき、いつもこのミシンを犬橇に積んで行き、どこででもたちまちティピ(テント)を縫ってしまったそうです。
古い手回し式シンガーミシンは、きっとそんなデネーの猟師としての時間まで縫い込んでいくのですね。

メアリーの手回し式シンガーミシン
デネーのティピの歴史的写真
そして僕はハタと気付きました。遊牧民や狩猟民に「家」つまり“ここ”が無いのではない。地平線まで続く大草原や大雪原それ自体が、彼らの“ここ”なのだということを。