今年7月から10月、東京国立近代美術館で、「記録をひらく 記憶をつむぐ」と題した特集展示がありました。“「昭和100年」と「戦後80年」の年、美術を手がかりに1930年代から70年代の時代と文化を振り返る”というのが開催の趣旨で、「戦争記録画」が多数出陳されているので観にいきました。それらは戦後進駐軍に接収され、70年に「無期限貸与」という形で戻ってきたのですが、これだけまとまって展示されるのは今回が初めてです。
「戦争記録画」は戦時中、国民の戦意高揚のため、軍が当時の著名画家に委嘱したものです。画家たちは“彩管報国”(絵筆で国に報いる)のスローガンの下、従軍画家として戦地に赴きました。そして戦後、画家たちの中には戦争協力に自責の念に苛まれたり、他者から指弾されたりし、藤田嗣治などはいたたまれずフランスに帰化してしまったのです。
確かに、多くの作品は戦意高揚の目的に十二分に応えています。しかし僕は、その表向きの意図とは正反対の、画家の心の悲痛な囁きが画面の奥から微かに聞こえてくる作品も何点かありました。
その一つが向井潤吉の「マユ山壁を衝く」です。向井は“史上最悪の作戦”と云われるインパール作戦に従軍し、この絵を描きました。一見するとこの絵は、南方の密林内の風景を描いただけの様に見えますが、近付いて良く見ると、数人の日本軍兵士が木の枝でカムフラージュして、林床の藪の中に溶け込んでいるのに気づきます。まるでトロンプルイユ(だまし絵)の様ですが、僕はすぐシェークスピアの「マクベス」の劇中、イングランド軍が森に擬装してマクベスの城を攻める場面を連想しました。

向井潤吉「マユ山壁を衝く」1944

「マユ山壁を衝く」部分
しかし、待てよ。僕はこの絵に何か既視感を覚えたのです。そう、これまで何度も体験してきた熱帯雨林での藪こぎです。そこは以前このコラムで書いた様に、吸血昆虫の巣窟です。当時の日本軍には熱帯病の予防薬や注射は勿論、防虫剤の用意も無かったでしょうし、敵に気付かれる恐れがあるので、手で虫を追い払ったり叩き潰したりできなかったかもしれません。多分兵士たちは無数の蚊やダニ、それに蛭などに喰われ放題で、体中がかゆみの限界。その挙句、様々な熱帯病に罹ったに違いありません。案の定、戦史を紐解くと、インパール作戦の死者数は、戦病死が戦死をはるかに上回り、その死因は餓死や赤痢と並んでマラリアが多数を占めていました。おそらく向井は最前線にまでは行かなかったでしょうが、後方でも十分その状況を肌で感じていたと想像します。

熱帯雨林で藪に身を隠し樹上のサルを撮影中
会場には、向井が戦後描いた「飛騨立秋」が並んで展示され、「マユ山」の樹々の描き方に戦後の画風がすでに現れているという解説がありました。これだから、若い世代の学芸員は困る。戦争の実相への想像力を欠き、審美的にしか絵を見ていないのです。
その後、僕は世田谷にある彼の旧宅を改装した「向井潤吉アトリエ館」を訪れました。戦後、様々な前衛芸術運動が華々しく展開した美術界にあって、ひたすら古民家や農山村風景を保守的な画風で描き続けた向井潤吉。おそらく彼はそこに限りない癒しを求めたのでしょうし、それだけ彼が戦地で受けた心の傷が深かったのではないかと想像するのです。
「向井潤吉アトリエ館」東京世田谷 向井潤吉「聚落」1966