長門峡について
長門峡とは山口県を代表する渓谷の一つで、主に山口県山口市阿東から萩市川上にまたがって流れる阿武川沿いの渓谷です。河口付近は萩市内を形作る三角州となっていますので、まさに萩市の源流ともいえる場所です。大正12年(1923)には国指定名勝に指定されています。現在では多くの観光客が訪れる場所となっており、総延長約12kmの渓谷は訪れる人々に四季によって様々な景色をみせてくれます。
しかしながら、元々この長門峡は多くの人に知られていた場所ではありませんでした。もちろん全く無名ではなく、周辺には平家の落人伝説や竜宮淵の伝説、雪舟が庵を構えたという長門峡にまつわる伝承も存在します。また江戸時代以前の街道が整備されていなかったころには、長門峡の山口市側である阿東や徳地付近は、宿場にもなっていたようで、現在より遥かに人の往来が多かったと云われています。そのため、多くの説話や物語が生み出され、語り継がれてきたものと思われます。
明治維新後、この渓谷に水力発電所が建設されることとなり、そのための事前調査が行われました。その時その見事な絶景に、調査員の一人であったイギリス人のエドワード・ガントレットが「九州の耶馬渓よりも美しい」として『長門耶馬渓』と名付けました。
その後、本格的な整備のために大正9年(1920)に萩市出身の画家であり、地質学者でもあった高島北海や、同じく萩市出身の陸軍中将であった山根武亮らによって改めて調査が行われ、北海によって改めて『長門峡』と命名されました。北海と武亮の二人は、その後阿武郡郡長であった岡村勇二を会長として「長門峡保勝会」を立ち上げ開発と整備を進めました。
その後大正時代に起こった鉄道による全国旅行ブームにより、大正11年(1922)には長門峡の山口市側の起点に新たに駅が設置され、また長門峡を紹介するパンフレットなども発行されました。観光パンフレットの制作で有名な吉田初三郎も、長門峡の紹介パンフレットや、現在萩博物館に所蔵され、レプリカが萩博物館のエントランスに置かれている『名勝 萩と長門峡之図』を描いています。
そしてその奇勝や雄大な景観、季節によって様々に変化する景色は多くの旅行者だけでなく、地質学者や文学者、画家をも魅了しました。東京帝国大学の地質学者・土壌学者の脇水鉄五郎、明治期の俳人である上田聴秋、他にも詩人である中原中也も長門峡を詠んだ詩があり、現在長門峡には花本(上田)聴秋と中原中也の碑が存在します。
他にも『長門峡』の命名者でもあり、整備を進めた一人でもある高島北海や、萩出身で戦後の日本画壇の重鎮となり、文化勲章を受章した松林桂月など、たくさんの画家も長門峡を描いています。
このコラムでは、次回から長門峡を紹介するだけでなく、その長門峡を描いた画家たち、主に高島北海と松林桂月に焦点をあて、紹介していきます。
上利英之