カルチャー掘り起こしとくにもやまにも

文化情報サイト徳にも山にも ロゴ

狩野芳崖先生銅像 彫刻アーキペラゴ〈2〉

にもにもの記事を読んでいたら、長府(山口県下関市)の功山寺に国宝があると知って、いそいそと出かけて行って、ひとしきり味わった後、帰りがけに観光マップを眺めていたら、「狩野芳崖銅像」という文字が目に飛び込んできました。そうだ!!!狩野芳崖(かのうほうがい/1828-1888)は下関出身で、下関市立美術館にも作品があるのだったと思い出して、さっそくこちらも寄ってみることに。はっきり言って、国宝を見に行くよりテンションが上がってしまってます。

国宝 功山寺仏殿(鎌倉後期)

「狩野芳崖銅像」は、功山寺から徒歩15分ほどのところにある覚苑寺(かくおんじ)の山門の側に鎮座していました。狩野芳崖の代表作《悲母観音》は、東京藝術大学大学美術館の稼ぎ頭の筆頭とも言える人気作で、その仏画のような母子像のような不思議な画面には、引き込まれずにいられません。とはいえそれを描いた狩野芳崖本人となると、肖像写真の尊顔が浮かぶだけで、人物が有名であるという認識はありませんでした。なにより実業家や政治家ではなく、美術家の銅像が立つ、というのも意外な印象です。胸像ならまだしも全身像となると、岡倉天心、浅井忠の像があるのを知っているくらいでしょうか。それくらい狩野芳崖の存在を大事に思う人々が長府にいたということですね。

《狩野芳崖先生像》1979年

芳崖の銅像は1923年に建造され、戦時の金属供出のため1943年に撤去され、1979年に再建されたそうです*註1。銅像の台座裏に、銅像制作は中村辰治、鋳造は四谷悦夫と記名がありましたが、中村辰治は、生年1928年(下関出身)となっているので、当初の銅像は別の作者の手によるもののようです。いまの銅像の姿は、狩野芳崖の肖像写真をもとに起こしたのでしょうね*註3。いずれにしても台座に刻まれた文章は熱烈なもので、芳崖をはっきりと「郷土の生んだ偉大な画家」として位置付けています。「地方の時代」の風潮と、銅像再建が1970年代の事業であったことは偶然じゃないような気がします。

覚苑寺表札

覚苑寺は狩野家の菩提寺で、芳崖の父、狩野晴皐は、長府藩の御用絵師だったそうです。長男であった芳崖は幼少期から父に画技を学び、19歳の時に狩野派の画家狩野勝川院雅信のもとへ。そのまま絵師として江戸に留まり、激動の時代を生き抜き、1882年にお雇い外国人として滞在していたアーネスト・フェノロサ(1853-1908)と出会います。東京美術学校の開校は1889年だったので、晩年の本当にわずかな時間で、生涯の傑作《悲母観音》をこの世に残し、教鞭をとることはなかったものの、作品は学校に残り、のちの多くの画家の手本となったというわけですね。長府藩の御用絵師が山口に残した仕事も調べてみたいものです。

註1 覚苑寺ウェブサイト「銅像と石碑」https://www.kakuonji.com/keidai/douzou.html(2025年7月27日閲覧)
註2
 アルティスジャパンウェブサイト「中村辰治」http://artisjapan.site/default.asp?action=1&num=36920(2025年7月27日閲覧)
註3
 Portraits of Modern Japanese Historical Figuresウェブサイト「KANO Hogai」 https://www.ndl.go.jp/portrait/e/datas/254/(2025年7月27日閲覧)
註4 
 静岡県立美術館デジタルアーカイブ「狩野勝川院雅信」https://jmapps.ne.jp/spmoa/sakka_det.html?list_count=10&person_id=364(2025年7月27日閲覧)

 

カルチャー掘り起こし とくにもやまにも